2017/01/22

泥の鳥

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【泥の鳥】

 「イスラーム映画祭」と言う催しが一週間だけ都内で開かれていました。商業ベースには乗らない為に普段は目にすることの無い映画に触れる好奇心と共に、トランプ大統領が就任する週である事にも何やら因縁を感じて、都内に足を運び2本だけ観ることが出来ました。

 本作は、バングラデシュの映画です。僕が小学生の頃は、パキスタンはまだ西パキスタンと東パキスタンに分かれていました。「一つの国がこんなにも離れた場所にあるなんて」と驚いたものでした。そして、東パキスタンがバングラデシュとして独立したのが1971年の事でした。本作は、その独立前の村のある一家の物語です。

 自分がすっかりジイサンになってしまったからそう感じるのかも知れませんが、本作に登場する男の子、女の子が可愛いのです。特に女の子は、インド・アーリア系の人々独特のキリッとした目鼻立ちが愛らしく、ニッコリ笑われると「うんうん、ジイサンが何か買ってあげよう」と言いたくなってしまいます。(念の為に申し上げておきますが、僕は怪しい男ではございません・・・いや、ちょっとだけ怪しいかも知れませんが)

 はじめに驚かされたのは、本作がミュージカルの様な造りになっていることです。物語の要所要所でバウルと呼ばれる土地の歌を歌う人が現れます。恐らく大道芸人の様に、旅をしながら路上で歌って日銭を稼いでいる人々が実際に居るのだろうと思います。そして、そんな人々の社会的な地位は決して高くはないのだろうと想像します。しかし、その歌がとても心地良いのです。インド映画では必ずと言ってよいほど歌と踊りが出て来ます。実は、僕にはあれらの歌はみんな同じに聞こえて「またか」と感じる面があります。ところが、このバウルは歌詞がとても豊かな世界を持っているのです。宗教的な面のみならず、日々の生活や男女の愛が歌い込まれて、我々にも理解できる心の機微が感じられます。

 あと、意外に思えた事。本作は、敬虔なイスラム教徒であるが故に西洋文明を拒否し子供を死なせてしまったり、考えの柔軟性を欠いているが故に政治に翻弄される男と言う性を冷ややかに笑っているようにも感じられました。こうした見方って現代においてすらある社会では反感を招くのではないでしょうか。

 また、本作の映画としての語法というか話法は、僕が普段馴染んでいる映画とはどこかずれている様に思え、そこがとても新鮮でした。これは監督の個性なのか、バングラデシュと言う国の国民性なのか、興味深い点です。

 今まで全く知らなかった国を覗き込む興奮と共に、世界の最貧国の一つに数えられるバングラデシュにおいても映画が撮られていると言う事が映画ファンとして嬉しく感じられる一作でした。

ユーロスペース にて (#5-15)

富戸ホール

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【2017/01/21 富戸】

 夏だって人の話し声や車の騒音が聞こえる訳ではないのに、冬の海の中は「静かだな」と感じるのはどういう訳でしょう。僕はこの静けさが大好き。

2017/01/21

ツバメウオ

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【2017/01/21 富戸】

快晴、海況:穏やか後やや波あり、水温:16℃、透明度:25m

 2週間続いた我が家の妻の鼻水ジュルジュルも漸く癒え、富戸に復帰です。週末は映画ばかり観てるよりもやっぱり海がいいなぁ。映画は受動性が非常に強く、自分で何を創造する訳でも行動する訳でもないので、それはそれでストレスが溜まるのです。

 海の中はまだまだ青く、ダイバーの数も少なく、6半もおニューを下ろしたので16℃を90分でも全く問題ありません。さぁ、改めてエンジン全開です。自分で泳いで、自分で見つけて、自分で考えて、自分で撮ります。

2017/01/20

土竜の唄 香港狂騒曲

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【土竜の唄 香港狂騒曲】

 「あ~、中身は空っぽだけど、スカッとする馬鹿馬鹿しい映画を観たい~」と思う事が時々あります。僕は、「B級欲求」と名付けています。そこで、今回その欲求に従って観たのがこれでした。

 漫画原作だし、続編だからストーリーを追えるのかが懸念されますが、「まあ、それほど中身が有るわけじゃないから、大体わかるでしょう」と映画館に向かいました。

 特命を帯びて暴力団組織に入った潜入捜査官(モグラ)のドタバタ大活躍といったお話です。予備知識ゼロでもほぼ問題なくストーリーを追うことが出来ました。

 脚本:宮藤官九郎、監督:三池崇史という所から乗りはおおよそ見当がつきます。特に、宮藤官九郎さんの映画はいつも「うるさい!」と拒否反応が出るのですが、昨年の『Too Young To Die』がかなり面白かったので、ガチャガチャした騒々しさにもちょっと期待していました。

 ところが、本作はただ騒々しいだけでした。出演の生田斗真さんも、本田翼さんも、菜々緒さんも、スッキリ演じ切っていて文句ないのですが、やはり脚本か演出の問題なのでしょう。馬鹿馬鹿しさが振り切れていないのです。『Too Young ・・』に見られた、「薄っぺらさを十分承知した上でそれに徹する」と言う潔さがなく、妙にまとまってしまいました。

 脇の堤真一さんや、特に古田新太さんの切れっぷりは気持ちよかっただけに残念です。「スカッと」できずに却ってモヤモヤが溜まると言う結果になりました。

海老名イオンシネマ にて (#5-14)

2017/01/19

山の郵便配達

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【山の郵便配達】
 
 先だって観た20年近く前の中国映画『初恋のきた道』が余りによかったので、同じ様な香りが漂う本作も見逃してはならじと映画館に足を運びました。本作も1999年作の中国映画のリバイバル上映です。
 
 1980年代の中国奥地の山間部の集落が舞台です。3日を掛けて山道を歩いて村々に郵便を届ける父は寄る年波に勝てず、仕事を息子に譲ります。その父にとっては最後、そして息子にとっては初めての配達の3日間を追った物語です。
 
 仕事のために家に殆ど帰らなかった父に対して息子は長年わだかまりを感じていたのですが、山道を同行する内に、父の仕事への誇り、ゆく先々の村人達の父親への信頼を目の当たりにする事になるのです。
 
 言ってしまえばただそれだけのお話です。特別大きな事件は何も起こりません。そう、何も起きないのに、どうしてこんなに豊かな物語が紡ぎ出せるのだろうと心底驚いてしまいました。
 
 泣かせ所もたっぷりあります。「お涙頂戴」には普段から神経質で、臭い展開には直ぐに拒絶反応が出る僕も本作では物語の流れになされるがままでした。それは、本作では、小さな設定・細やかな台詞一つ一つを丁寧に描くことで、物語の網目が緻密に繋がり大きな絵巻物になり得たからでしょう。
 
 慎ましく生きる人々の確かな誇り、手を動かし、体を動かして成し遂げる労働、そして日々の確かな充足感。それらは嘗ては日本にも確かにあった幸せに違いありません。その失ったものを惜しむのは単なるノスタルジーに過ぎないのでしょうか。
 
 往く先々の山の光景は美しく、小さな集落で暮らす少数民族の人々の衣装も音楽も心にしみ渡ります。そして、旅に同行する愛犬「次男坊」(この名前も秀逸!)の演技も心憎いのです。
 
 ‘80年代の設定とはいえ、これも中国ならば、『ブラインド・マッサージ』や『最愛の子』で描かれる厳しい現実もまた中国なのです。政治的な状況はともかく、「中国は、」などと一括りには語り得ない広大な物語がある事を感じます。でもそれは、日本だって韓国だってアメリカだってドイツだって同じ筈です。
 
 数十億の物語を抱えた人が地球の隅々で生き続けているのだと言う何だか大風呂敷を広げた様な思いまで抱かせる素晴らしい作品でした。我が家の妻が風邪を引いてくれたお陰で週末に時間が出来て観に行けた映画でした。彼女もたまにはいい事をします。(#5-13)

2017/01/18

ブラインド・マッサージ

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【ブラインド・マッサージ】

 もう30~40年前のことだと思うのですが、山田太一さん脚本のNHKのドラマで『男たちの旅路』と言うシリーズがあました。愛とか思いやりと言った予定調和を排し、人の心ひとつひとつに対して「それは本当なのか?」を厳しくそして優しく問いかける珠玉の名作でした。その中に、車椅子の青年を扱った一作がありました。バリアフリーなどと言う言葉などまだなく、車椅子の人が一人で街に出るには物理的にも心理的にもまだまだ大きな障害のあった時代です。そんな自分の運命に鬱屈した思いを抱いていた青年は、或る日、両親に「俺、トルコ風呂に行きたい」と打ち明けます。ソープランドと言う言葉もまだなかった時代です。すると、普段無口な父親が、息子にお金を握らせて「チップはけちるんじゃないぞ」と送り出して遣るのでした。

 障害者だって(「だって」という言い方自体が妙なのですが)、風俗で思いっ切りはしゃいでみたいと思うのは当然の事です。でも、そんな当たり前がTV画面に登場した事に当時は大いに驚かされ、当たり前を意識の中で封じ込めていた自分自身に気付かされたのでした。

 この映画を観ていて、むかしむかしのあのドラマの事を思い出しました。本作は、上海にあるマッサージ院の物語です。この経営者も、マッサージ士として働く従業員も殆ど全員が盲目なのです。「障害を抱えて可哀想」などと言うセンチメンタリズムは全くありません。かと言って「打ち続く不幸」がわざとらしく描かれる訳でもありません。人が集まる所には生じるであろう恋・金・性と言った問題が次々と映し出されるのです。

 そこには、あの山田太一さんのドラマにあった様な「力み」は既になく、「普通」に描写されています。それが30~40年の時間の意味なのでしょう。でも、目が見えないと言う問題は、舞台が中国であると言う事を仮に差し引いたとしても、やはり「普通」ではないのだと言う事を思い知らされる事になります。近年では、様々な「肉体的障害」を「個性」として捉えようとする考えがあります。確かに、あっと気付かされる様な視点の転換です。でも、例えば目が見えないと云うことは、「足が遅い」「音痴だ」と言う「個性」とはやはり明らかに異なる問題なのです。スクリーンの中で苦闘する彼らを見ていたら素直にそう感じました。

 物語としては、主人公の心に吹いている風をうまく感じられず、「それはなぜ?」を語って欲しいと言う思いを残しましたが、日本映画ではあり得ない作品でした。

 最後に、(ネタバレになりますが)本作で大変印象に残った台詞を記しておきます。

 「前から車が遣って来るのと、人が来るのとでは何が違うか分かる? 車とぶつかったら事故だけど、人とぶつかったらそれは恋なのよ」

 くぅ~、僕が20代だったらこれを決め台詞として何処かで使っただろうになぁ~(#5-12)

2017/01/17

アイヒマンを追え

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【アイヒマンを追え】

 ナチス時代を見直すドイツ映画がまた新たに登場です。

 ユダヤ人の強制収容所移送の責任者であったアイヒマンは、戦後のどさくさに紛れて南米に逃れ地下に潜伏します。しかし、イスラエルの諜報機関・モサドにその正体を突き止められれ、拉致され、イスラエルでの裁判の後、処刑されます。そのドラマ性もあってか、これまでも映画化された事はありました。

 本作は、そのアイヒマン追跡に新たな光を当てようとする作品です。僕はこれまで、アイヒマンの追跡はモサドの執念の調査によるもので、誰にも知られること無く秘密裡に進められて来たのだと思っていました。ところが、アイヒマンの潜伏先情報はドイツの検事総長バウアーからもたらされたものであったと言うのが本作の骨組みです。

 じゃあ、情報を持っていたドイツ自身がどうしてアイヒマンを逮捕してドイツで裁判に掛けなかったのかと言う疑問が残りますよね。それは、戦争に破れたのはヒトラーであって、ナチス文化ではなかった事に由来することが本作で明らかになって来ます。つまり、戦後の政権にもヒトラーの時代の精算に抵抗する力が堂々と横行していたのです。そこを本作は正攻法で描いて行きます。

 また、本作ではサイド・ストーリーとして別の「法と道徳」を問う物語が並走します。それを描く必要があったのか否かは議論があるかと思いますが、「ヒトラーを罰する事が出来ない法が、これは堂々と罰するのだ」と言うコントラストと僕は捉えました。

 この時代についての最近のドイツ映画の、『ふたつの名前を持つ少年』-『ヒトラー暗殺 13分の誤算』-『アイヒマンを追え』-『ハンナ・アーレント』-『顔のないヒトラーたち』と様々な角度の作品を繋げることであの時代を再検証する事ができます。そこにドイツ以外の映画『サウルの息子』『アイヒマン・ショー』『ヒトラーの忘れもの』などを加えれば更に厚みが増します。ドイツの人々は今も、いや戦後70年を経過した今だからこそ歴史を掘り起こす映画を作り、それを支持する観客も得ているのです。

 翻ってみるに、日本ではこの3年間で戦争を正面から捉えた映画は『野火』ただ一作です。しかも自主制作映画です。この彼我の差は何なのでしょう。この映画界の状況を見るにつけ、そしてそれを許す我々観客の状況を思うにつけ、ドイツのワイツゼッカー大統領の有名な演説が思い起こされます。

 「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」

 我々は今、目を閉ざしてハメルンの笛吹に踊らされているのではあるまいか。

 何だか感傷的になってしまいましたが、ドイツ敗戦40年の日のワイツゼッカー演説の最後の一節を記しておきます。

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ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。
若い人たちにお願いしたい。
他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
ロシア人やアメリカ人、
ユダヤ人やトルコ人、
オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、
黒人や白人
これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。
民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。
自由を尊重しよう。
平和のために尽力しよう。
公正をよりどころにしよう。
正義については内面の規範に従おう。
今日五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しょうではありませんか。

ル・シネマ にて (#5-11)

2017/01/16

エルストリー 1976

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【エルストリー 1976】

 1976年、イギリスのエルストリー・スタジオに集まってきた様々な役者さん(殆どがちょっとした脇役)達の今を追ったドキュメンタリー作品です。当時彼らはTVドラマの撮影なのかなという程度の認識しかなかったのだそうで、それがあの Star Wars 第1作であるという事を知る人は居なかったのです。

 これは無茶苦茶面白そうな作品に思えました。Star Wars には終始批判的な僕もこれには興味津津でした。

 ところが、内容は少し想像と異なっていました。Star Wars の知られざる撮影秘話が明かされるのかと云う芸能週刊誌的な覗き見趣味は殆ど満たされる事はありませんでした。どちらかと言うと、この撮影スタジオですれ違った人々の人生を追うと言う視点だったのです。

 そして、それぞれの人生と言うのがそれほど面白い語りではありませんでした。或る人は自分がStar Warsに出演していたと云うことを人に話すこと無く人生を送り、また或る人は作品の大ヒット以後もファンの集いなどに参加して人生を左右される事になります。

 それぞれの役者さんのその後の人生をただ追うだけでなく、皆さんにとってあの作品が自分の人生に一体どんな意味があったのか、なかったのかをもっともっと掘り下げて欲しかったです。さもないと、本作の中心にエルストリー・スタジオを置いた意味がなくなってしまうと思います。ダース・ベーダーの「中の人」の話なんてもっと深い話が引き出せた筈です。

 面白そうなテーマであっただけに残念です。

武蔵野館 にて (#5-10)

2017/01/15

疾風スプリンター

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【疾風スプリンター】

 予告編を見た時点で「このストレートな作りは期待できそう」と公開を待っていた作品です。

 台湾を舞台とした、自転車のロードレースの物語です。難しい理屈は抜き。少年ジャンプの様に「友情」「努力」「勝利」の物語です。それに、「挫折」と「恋」まで盛り込まれているのですから、もうお腹一杯になります。監督は香港のダンテ・ラムさんです。

 自転車のロード・レースと云うのは日本では「ツールド北海道」が少し話題になる程度で、殆ど馴染みがありません。ところが、本作で観る限りでは台湾では非常にメジャーなプロスポーツになんですね。

 まず、何と言ってもレースのスピード感と迫力です。CG全盛の時代にナマの肉体からほとばしる汗に原始的な興奮を覚えました。ロードレースとは100mダッシュのスピード感とマラソンの持久力を合わせ持った競技なんですね。更に、チーム競技としての複雑な作戦もあるので物語に自在な起伏を持たせる事が出来ます。こりゃあ確かに映画の題材には持って来いです。

 様々な角度から捉えられる選手の表情や肉体、自転車のメカニカルな輝き、そして舞台となる土地の美しさに思わず「ひゃっは~」と歓声を上げそうになります。

 ただし、ただしですね。恋の成り行きとか友情の表し方などは、展開がもたついたり間延びしたり臭かったりします。でも、そこは香港映画の持ち味と考える事にいたしましょう。観客もペダルをこいでそこは通り抜けるのです。スピード、スピード。

 香港カンフー映画が好きな方ならば必ず楽しめる映画だと思います。

武蔵野館 にて (#5-9)

貌斬り KAOKIRI

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【貌斬り KAOKIRI】

 この場でも何度か書いてきましたが、僕は舞台演劇が苦手です。「大声で語られるヒソヒソ話」「どこだか分からない宙を見つめて(二階席?)の思い入れたっぷり(過多)の台詞回し」「舞台に突っ伏しての絶叫」そんな事一つ一つに白けてしまって何度見ても馴染めないまま遠ざかったのでした。

 本作は、そんな「舞台嫌い」の人間に敢えて挑戦するつもりで撮られた映画の様に思えました。非常に複雑な作りの物語なのです。

 お話の中心は、嘗ての二枚目俳優・長谷川一夫さんが剃刀で顔を斬られた事件です。その事件の真相を明らかにしようとする映画の打ち合わせが始まります。しかし、その打合わせとは舞台上で演じられている劇なのです。そして、本作は、その劇に出演している役者を演じる俳優たちによる劇映画なのです。物語が二重・三重の入れ子構造になっているのです。言わば、劇中劇中劇と云った仕組みです。

 その映画を観る者は、一体自分が入れ子のどの段階にいるのか分からなくなってしまいます。恐らく、それこそが本作の狙い目なのでしょう。

 始まって暫くは、僕の嫌いな「演劇臭さ」が次々と流れ出し、冷め始めました。展開や笑いの取り方もわざとらしいのです。ところが、やがて、「どうなるの? どうなるの?」とついつい前のめりになっている自分に気づきました。その「どうなるの?」が、長谷川一夫事件の真相が「どうなるの?」なのか、それが演じられている演劇が「どうなるの?」なのか、それを映している映画が「どうなるの?」なのかが自分でも分からなくなってしまうのです。

 う~ん、悔しいけど、まんまと遣られてしまいました。だからと言って「演劇を見直してみよう」などとはやはり思いませんが、このクラクラ感は一度体験してみる価値があります。

アルテリオシネマ にて (#5-8)

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